一宮スタジオ友の会

 友の会を作った。我々CAワークスが掲げる理想に共感して、ともに活動する仲間の会、友だちの会だ。友の会の会員になると一宮スタジオを利用できる。ワークショップや講座が開ける地下1階の「スクエア」(広場、という意味だ)と、照明・音響・防音設備を備え、演劇・舞踏・音楽の練習や発表会にも対応した3階の「シアター」の2つの会場が使える。もちろんその都度、使用料は発生する。が、近隣の尾張エリア、名古屋市内の施設よりも使用料は安く設定してある。たくさんの人に友の会に入って、いっしょに活動してほしいと切に願う。


 行政は文化を軽んじている。日本全国を見回すと、こう考えざるを得ない。

 例えばホール。各自治体にある。どんな田舎にも、いや田舎ほど巨大なホールがあったりする。小ホールという名前がついているが、調べてみると定員が350人収容だったりする。アマチュア劇団で1公演350人もコンスタントに集客できる劇団がいったいいくつあるだろう。打ち合わせには1か月前に出向かなければならず、ホール付きの業者を必ず雇わねばならないところも多い。業者ひとり雇うと1日いくらかかるか知っている?私は知っているが書かない。アマチュアはまずここでひるむ。そして無理して金の工面に走るか、利用を諦めるかの2択を迫られる。

 ホール自体も多目的仕様になっているのがほとんどだ。音楽会もできますよ、演劇にも、講演会にも使えますよ。それって実は何にも使えないってことだ。例えば音ひとつとっても、音楽、演劇、講演、欲しい音の出方は全く異なる。何にでも使えるが、何にもしっかりとは使えない。そんな施設が町にひとつ、田んぼの真ん中に妙に威風堂々と建っている。

これが日本全体を見回した時の現状だ。

 例えば公民館。各町にいくつもある。公民館は貸し部屋業務もやっている。が、演劇や音楽の練習をやろうものなら、となりの部屋で会議をしている人からうるさいと苦情が寄せられる。うるさいに決まっている。普通の公民館の貸し部屋には、防音設備など備えられていないのだから。それでも演劇の練習がしたいと思えば、声のボリュームに注意を払いながら、明かりは蛍光灯、音響は持ち込んだラジカセで稽古するしかない。そうやって稽古して1本芝居ができたとする。さあ、公演をやろう!しかし公民館では有料公演はできない。しちゃいけないのだ。そんな環境で芝居をやろう、音楽をやろうという人は何年も何年も活動を続けている。これが今の日本の、文化活動をめぐる現状だ。

 しんどいね。しんどい。で、ちょっとずつこんなふうに考えて現状と折り合いをつけてゆくようになる。自分はアマチュアだから仕方ない。趣味でやってるんだから仕方ない。田舎に生まれたから仕方ない。仕方ない、仕方ない、仕方ない・・・。仕方ないばかりだとだんだん楽しくなくなる。あれほど楽しかった芝居や音楽がキラキラして見えなくなる。プレイしているときの、あの高揚感が感じられなくなってゆく。それどころか。やればやるほど疲弊してゆく。経済的にも精神的にも。そうしていつの間にか、一人二人とフェードアウトして消えてゆく。文化活動、創作活動を諦めてゆく。そこへコロナが追い打ちをかけた。それでも頼みの綱だった公民館は、夜8時で閉まるようになった。仕事が終わってから稽古しようにも公民館すら開いていない。日本中のアマチュア劇団はさぞかし困ったに違いない。活動休止を選んだ人たちもいただろう。

これが今の日本の、文化活動、創作活動をやろうと志を持った人間を取り巻く現状だ。


金がなくても、田舎に生まれても、仕事しながらでも、演劇や音楽、そのほかの芸術活動をやれる、やり続けられる。そういう場所を作る。誰かが与えてくれるのを待つのは、もうやめだ。ほしいものは自分たちでつくる。そう考えて作ったのが、一宮スタジオだ。唐突だが、日本ではエッセストとして紹介されることの多い須賀敦子という人が、その著作の中で素敵な言葉を書いている。引用する。「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」(『ヴェネツィアの宿』)